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2002/01/01
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ここ約2年半ばかり、突発的に起こった世界の紛争地、震災被災地の現場を訪れては、撮影活動を行っています。それは1999年7月に、紛争終結直後のコソボを訪れたことがきっかけでした。
「夜中に突然自宅に押し入ったセルビア警官らによって、銃で親を撃ち殺されました。自宅は荒らされ、電化製品、貴金属など略奪を受けている間に、『さっさと失せろ』と脅され、家族6人着の身着のまま逃げ出したのです。夜じゅう歩き続けて、隣国マケドニアへと脱出しました」。
アルバニア系住民女性、マリーチさん(47)は涙を浮かべて訴えました。
火が放たれ屋根のない家屋、山中の虐殺現場、首のもがれた子供向け人形・・・。民族紛争の根深い憎悪を物語る目前の現場。ほかの複数の生々しい目撃証言からも、セルビア側が主張する「テロリスト一掃」は名ばかりで、一般市民を巻き添えにした残虐行為は明らかでした。
その一方で、当事者の人々は、必ずしもメソメソと泣き続けるばかりではありませんでした。落ち着きを取り戻した人々は、周辺国から帰還した隣人を大歓迎。平和を勝ち取ったとの喜びを隠すことなく語り合い、また報道関係者を相手にタクシードライバーとして、早速生計を立てる人々の姿もありました。夜の街でも、これまで禁じられていたアルバニア語音楽が大音響で鳴り響き、道端では若者が踊りに興じています。自粛という雰囲気ではありませんでした。悲しみを越えて、故郷のコソボへ再び生きて帰ってきたことを、住民は家族、隣人とともに心から喜んでいました。ここが本当に多くの人々が犠牲になった戦場だったのか。目前の現場は調べ得た情報より多様に思えました。
2000年8月には、震災被災地トルコへ向かいました。震災後1年を前に未だテント生活から脱せない女性、マーリデ・チャクルさん(32)が、私の目をじっと見つめてジリジリと詰め寄り、早口で捲し立てるように訴えました。
「震災当時、15分近く全壊家屋の下に埋まっていて助け出されました。3ヶ月の入院費用が負担となって、これまで全く働いた経験もないのに街路脇に腰掛け、衣料品を売って生活しています。テレビや新聞を見ていると、『被災地にはこんなに援助した素晴らしい』と報道されているけれど、私たちにまともに届いてはいない。被災者の現状は深刻で厳しいのです。私のテントをどうか見て下さい」
トルコでごく普通の家庭に育った女性は、大学卒業後に就職するキャリア派を除くと、学校卒業後に花嫁修業をしてそのまま結婚するパターンが主流。マーリデさんにとって震災をきっかけに社会へ出て働くことは、金銭苦を肌で感じる辛い体験となったに違いありません。しかし、彼女は多くのマスコミ関係者を掴まえて、前向きに生活改善を訴え続けることを止めないのです。黙っていては、自分は変わらないし社会も変わらない。それをマーリデさん自身が震災体験から身を以て理解していました。だからこそ自力で、一人きりでも訴え続けたい。這い上がる女性はなんて強いのでしょう。
さらに、コソボやトルコ以降も、紛争地ではエリトリア、マケドニアへ、震災地では、台湾、インドへと足を運びましたが、政治や利害関係は様々でありながらも、最低限度の生活を営もうとする人間の共通性を感じました。そして、一般家庭への訪問を繰り返すうちに同性という立場からか、自然と女性に目が向くようになったのです。
夫や子供や両親 家族を守るための献身な姿、明るさを保とうとういバランス感覚から見せる笑顔、周囲の人間を癒す包容力、男勝りな強さ・・・。滅茶苦茶に破壊された自宅しか財産のない家族も、たとえば彼女らが作る、ささやかでも温かな手作り料理によって、どんなにか癒されていることでしょう。極限の地では、普通の女性がまさに生命を支える大いなる力になっています。懸命に生き抜く人々の表情は、眼は鋭く輝き、むしろ生き生きと、そしてより人間らしい。死に直面した人だからこそ、生命の尊さを重んじている一面もあります。
気がつくと、そんな女性の「強さ」に強烈に惹きつけられました。同じ時間を共有し、その生きざまを見ているうちに、弱い立場であるはずの彼女たちからむしろ私の方が勇気づけられていました。考えてみれば、人間誰でも窮地に陥った時ほど、どうしたら問題をいち早く解決できるか、と奮闘するもの。「逆転してやろう」というファイトも生まれてきます。弱から転じた強なのです。それは国境、人種など関係なく、ポジティブに生きようとする「人間の生きる力」に依拠しています。被災者という困難な立場を乗り越え、立ち直ろうとする女性の姿の中に、私はそれを強く感じていました。
撮影活動を通じて紛争・被災地に関わることが、いつの間にか自分自身の生き方にも強く影響を及ぼし、かけがえのないものになっています。その場所を通じて、自分自身がもっと強くなれるかもしれないと思うし、また被害を受けた一般の人々が実際どう生きているか知るために、被害の暗部を強調するだけでなく、前向きに生きる強さや明るさも積極的に伝えていきたいと思っています。
それにはフリーランスの写真家として、通信社とは違う役割を果たしたいとの願いも含まれます。海外ニュースでは、日本人から見ると、遠い国の非日常的出来事として認識されることも少なくはないからです。ドキュメンタリーの中にも、わかりやすくポジティブな伝え方があっていいのでは、と思います。
加えて、1999年7月にコソボで撮影した「眠る母子」の写真ですが、以前この写真を観てくれた20代前半の男性から、「私も昔こうやって母と寝ていました」と言われたことがありました。この言葉の中には、お母さんとの思い出がたくさん詰まっていると思われ、写真で何かを感じて貰えてうれしく思いました。
被災者を撮影するうえで、「この人たちを見て、かわいそうでしょ」と強調するつもりはないのです。生き抜き輝いている人たちと信頼関係を結び、お互い励ましの存在でありながら、シャッターを押せたらいい。観る人にとって自由で開放的な写真でありたい、と思います。
写真を観る人が撮影者の感性以上のものを感じて、私にその感想を返してくれること。撮影者と被写体の関係に写真を観る人を加え、三者双方向の関係を大切にしていきたい。それが、私の撮影の原動力、「生きる力」となっています。 |
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| (「総合ジャーナリズム研究」(社団法人 東京社) No179 2002年冬号) |
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